おそらく多くの人は
「ド」は「ド」
の「ド」と言う感覚は、
「音自体に『ド』と言う性質(クロマ)がある」
と言う先入観にとらわれているのではないでしょうか?
特に絶対音感保持者の場合は実際、
あたかも音自体に『ド』と言う性質があるかのような、
そんな聴こえ方をしてしまうために、
そうした考え方に陥ってしまっているのではないでしょうか?
しかし、その先入観にとらわれている限り、
永遠に物事の本質は見えてきません。
決して音自体に「ド」と言う性質があるのではなく、
音が人間に認知されることで、
「初めて『ド』になる」
言い換えれば、
「『ド』と言う感覚を自ら作り出している」
と言う
「発想の転換」
がここでは必要だと私は考えています。
そうして考えれば「其の五」、「其の六」のケース、
基準ピッチの異なる2人の絶対音感保持者Aさん、Bさんが
「同じ音を聴いているにもかかわらず、異なるクロマを認知する」
のも、
「同じ曲を聴いているにもかかわらず、異なる調性格を感じ取る」
のも何ら矛盾はありません。
それでも
「音自体に『ド』と言う性質(クロマ)がある」
と言うのであれば、これらの現象を合理的に説明できますか?
(其の十一) (其の十二) (其の十三) (其の十四) (其の十五)