前回の「移動ド」の例も、前々回の「移調」の例もそうですが、
どうも今までは最終的な(表面的な)結果のみに目が向けられ、
「それがどのように実現されているか?」
と言う違いにはあまりスポットが当てられていなかったのでは
ないでしょうか?
そこで、本ブログでは「how」の部分に注目して、
絶対音感者と非絶対音感者の違いを私なりの独自の見解で
いくつか取り上げてきましたが、但しそこには
「どちらが優れていて、どちらが劣っている」
と言った意図は一切含まれていません。
本ブログでは、「クロマ(周波数比)を認知する仕組み」から
両者の違いに迫ってみましたが、その仕組みから考えれば
絶対音感者が「音名を判別」できることも、
「移動ド」や「移調」に対応するためには論理的な訓練が必要なことも、
また逆に非絶対音感者が「移動ド」や「移調」に感覚的に対応できるのも
何ら不思議なことではありません。
それぞれの聴こえ方にはそれぞれの世界が広がっていて、
それぞれの世界では自分の世界が正しく、
そして相手の世界が間違って見えるのは
「ある意味当然のこと」と言えるでしょう。
その能力の優劣を争うことに意味がないことは、
過去の議論を見ていれば明らかではないでしょうか?
それよりもまず大切なことは、両者の違いを把握し、
「その違いがどこから来るのか?」
と言うことを客観的に(論理的に)捉えることではないしょうか?
その上で「絶対音感者向けの考え方」、「非絶対音感者向けの考え方」が
しっかりと「区別して扱われるべき」だと私は考えています。
では、何故
「『絶対音感の終焉』と言うタイトルが付けられているのか?」
と疑問に思った人もいるかも知れませんが、これは優劣の問題ではなく、
倫理的な見地、簡単に言ってしまえば、
「それは本来の人間の能力ではない」
と言うことです。
絶対音感の終焉