例えば「ウェーバー・フェヒナーの法則」における
人間の心理的な感覚の変化量さえ同じであれば、
「音楽的に等価と言えるでしょうか?」
相対音感(あるいは階名/移動ド)上、
「ドレミ」と「ファソラ」と「ソラシ」
はどれも定量的な変化量は変わりませんが、
もちろん音楽的には等価ではありません。
こうして考えると移調のもとでの等価性と言うのは、
決してトーン・ハイト上の定量的な変化ではなく、
「トーン・クロマ上の定性的な変化が完全に一致」
したときに成立すると言えるでしょう。
もし人間の感覚が周波数の定量的な変化だけを
捉えていたならば、
「音楽はもっと味気ないもの」
になっていたのではないでしょうか?
そういった意味で音楽にとってはこの定性的な変化、
言い換えれば、
「調性」
が非常に重要だと私は考えています。
だから、もし仮に
「協和」
と言う定性的な概念を経由せず、
「高さ」や「変化量」
と言った定量的な概念で直接「聴音」、
あるいは「音取り」が行われているとしたら、
「それは音楽とは似て非なる全く別の行為」
になってしまうのではないでしょうか?
高さや変化量と言った定量的な概念は、
協和と言う定性的な概念を具現化したときに
初めて確定され、そして表面的に現れる
「単なる見掛け上の概念に過ぎない」
だから、
「『正確な高さ』を具現化した結果、『協和』が得られる」
のではなく、
「『協和』を具現化した結果、『正確な高さ』が得られる」
そんなイメージを私は持っています。
ところでここで素朴な疑問です。
この定性的な感覚(トーン・クロマ)上、
「絶対と相対、この2つの考え方は両立するのでしょうか?」
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