宮崎謙一教授の『絶対音感神話』にも
「操作的定義」
と言う言葉が登場しますが、どうも一般的には
「表面的な結果」
によって絶対音感/相対音感の有無を判断することが
多いのではないでしょうか?
絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)
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では、どうして私が表面的な結果ではなく、
「どのような仕組みで実現されているか?」
と言う内面的な部分に着目しているのかと言えば、
それはその仕組みが分かれば必然的に
「どう考えるべきか?」
が明確になるからです。
例えば移動ドの重要性を訴える人がいますが、
そもそも、
「どうして移動ドが重要なのでしょうか?」
以前、
「移動ドで読むと相対音感が身に付く」
と言った意見を見掛けたことがありますが、
もしこの理屈が成り立つのであれば、
「固定ドで読むと絶対音感が身に付く」
と言う理屈が成り立っても不思議ではありません。
実際には移動ドの概念で音が認知されているからこそ、
つまり順番が逆で、
「相対音感で音が認知されているからこそ、
移動ドで読むことに意味がある」
あるいは、
「相対音感で音が認知されているからこそ、
移動ドと言う概念が生まれた」
と私は考えています。
なぜなら、
「協和は周波数の比」
に対応した概念であって、
「決して特定の周波数を指している訳ではない」
つまり、協和は固定ドではなく、
「移動ドに対応した概念」
だからです。
また、
「音が取れれば移動ドでも読める」
あるいは、
「移動ドは歌詞みたいなもの」
と言った意見を見掛けたこともありますが、
そもそも移動ドで音が取れていない時点でそれは、
「全く別の行為」
と考えるべきではないでしょうか?
同様に、
「表面的には階名/移動ドで読んでいても、
内面的には音名/固定ドの概念で音が取られている」
あるいは、
「表面的には音名/固定ドで読んでいても、
内面的には階名/移動ドの概念で音が取られている」
と言った場合もあるでしょう。
結局、このように表面的な結果だけに着目していても、
決して物事の本質的な違いは見えてきません。
操作的定義において、
と問われれば共存できると言う見解に異論はありませんが、
内面的な仕組みで絶対音感と相対音感を定義するのであれば、
絶対音感も相対音感も科学的に解明されていない現時点では、
「誰も正確には回答できない」
と言うのが現状ではないでしょうか?
(了)
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